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長崎地方裁判所福江支部 昭和34年(ワ)52号 判決 1966年6月30日

主文

原告等の請求を棄却する。

訴訟費用は原告等の連帯負担とする。

事実

原告等訴訟代理人は、「(一)別紙第一図面表示の、本件係争地の南東端にある松の切株(当裁判所昭和三五年七月二二日実施の証拠調調書添付見取図表示の(チ)点)の中心点を基点とし、右基点を<20>とし、<20>から北四六度西、距離四〇メートルの地点を<21>とし、<21>から北五一度西、距離五〇・三メートルの地点を<22>とし、<22>から北五二度三〇分西、距離九六・七メートルの地点を<23>とし、<23>から北八一度五〇分西、距離一四五・五メートルの地点を<24>とし、<24>から北六六度三〇分西、距離一八一・五メートルの地点を<25>とし、<25>から北六八度西、距離二五・五メートルの地点を<26>とし、<26>から北七二度三〇分西、距離一四三・五メートルの地点を<27>とし、<27>から北七度東、距離九六メートルの地点を<1>とし、<1>から南四八度五〇分東、距離二五・七メートルの地点を<2>とし、<2>から南三八度東、距離二二・八メートルの地点を<3>とし、<3>から北七五度一〇分東、距離四二・五メートルの地点を<4>とし、<4>から北八五度一〇分東、距離三〇メートルの地点を<5>とし、<5>から南八四度東、距離四七・五メートルの地点を<6>とし、<6>から北八三度五〇分東、距離三六・六メートルの地点を<7>とし、<7>から北八七度五〇分東、距離五一メートルの地点を<8>とし、<8>から南七三度東、距離五九・五メートルの地点を<9>とし、<9>から南八〇度三〇分東、距離五三・三メートルの地点を<10>とし、<10>から南六〇度一五分東、距離五六、二メートルの地点を<11>とし、<11>から北八八度三〇分東、距離五二メートルの地点を<12>とし、<12>から南二八度一〇分東、距離五一・五メートルの地点を<13>とし、<13>から南五七度一五分東、距離五〇・五メートルの地点を<14>とし、<14>から南八二度東、距離三〇・五メートルの地点を<15>とし、<15>から南四四度東、距離四七・五メートルの地点を<16>とし、<16>から南四九度東、距離一二〇・五メートルの地点を<17>とし、<17>から南三一度四〇分東、距離三一メートルの地点を<18>とし、<18>から南五度東、距離一九・五メートルの地点を<19>とし、<19>から南三〇度西、距離九五・五メートルの地点が基点の<20>に当り、右<20>・<21>・<22>・<23>・<24>・<25>・<26>・<27>・<1>・<2>・<3>・<4>・<5>・<6>・<7>・<8>・<9>・<10>・<11>・<12>・<13>・<14>・<15>・<16>・<17>・<18>・<19>・<20>の各地点を順次直線で連結した線に囲まれた実測面積七三五九六・六九平方メートル(九町四反三畝二三歩)の土地が、原告等所有の福江市蕨町字清水二五五番ロ山林一町一畝一〇歩に属することを確認する。(二)被告等は連帯して原告等に対し、別紙目録記載の換価代金一二万五二〇〇円を引き渡せ。(三)訴訟費用は被告等の連帯負担とする。」との判決を求め、その請求原因として次のとおり述べた。

一、福江市蕨町字清水二五五番ロ(登記簿上、長崎県南松浦郡久賀島村蕨町二五五番ロ字清水)山林一町一畝一〇歩は原告等の共有に属するものである。以下登記簿上のこの土地を「ロ地」と略称する。

二、そして「ロ地」の範囲は、請求の趣旨記載の<20>・<21>・<22>・<23>・<24>・<25>・<26>・<27>・<1>・<2>・<3>・<4>・<5>・<6>・<7>・<8>・<9>・<10>・<11>・<12>・<13>・<14>・<15>・<16>・<17>・<18>・<19>・<20>の各地点を順次直線で連結した線に囲まれた地域で、実測面積は七三五九六・六九平方メートル(九町四反三畝二三歩)である。以下この実測地を「係争地」と略称する。

三、なお「係争地」と隣接地との位置・形状等は別紙第二図面(略図)記載のとおりである。

四、ところが昭和三四年一〇月中、被告等は共同して「係争地」内の原告等共有の松一〇〇石を勝手に伐採し、他へ搬出しようとした。

五、そこで原告等は当庁に対し、被告等を相手どり、「係争地」への立入り禁止、同地における伐採の禁止、伐倒木の搬出禁止等の仮処分申請をなし、右事件は昭和三四年(ヨ)第二一号仮処分申請事件として審理され、同年一一月一八日付で申請同旨の仮処分決定を得、その執行を終え、伐採木は現状のまま、長崎地方裁判所福江支部所属執行吏山田正義の占有に移され、以後同執行吏の保管するところとなつた。

六、ところが其後現場に保管中の右伐倒木が腐蝕化したため、原告等の申立により、当庁昭和三五年(モ)第九号換価命令に基づき、換価処分され、換価代金一二万五二〇〇円は前同執行吏により供託された。

七、而して被告等は本件紛争の当初より「係争地」は原告等共有の「ロ地」に属することを否定し、かえつて右地域は福江市市有地(地番不明)で、同地については後記のように蕨部落民が入会権を有し、被告等は同部落民の委託により伐採したものであると主張するものである。

八、よつて原告等は本訴において、「係争地」が原告等共有の「ロ地」に属することの確認を求めるとともに、被告等に対し、連帯して前記共同伐採にかかる伐倒木松約一〇〇石の代用物である換価代金一二万五二〇〇円の引き渡しを求めるものである。

証拠(省略)

被告等訴訟代理人は、主文第一・二項と同旨の判決を求め、答弁として次のとおり述べた。

一、請求原因一の事実は認める。

二、同    二の事実は否認する。

三、同    三の事実は争う。なお「係争地」と隣接地との位置・形状は別紙第三図面(略図)記載のとおりである。

四、同    四の事実中、被告等が共同して、昭和三四年一〇月中に、「係争地」内において、松約一〇〇石ぐらいを伐採したことは認める。しかしながら右伐採行為は正権原に基くものである。即ち「係争地」は、市町村合併により現在では福江市市有地になつているが、以前は久賀島村村有地であつた。そして同地については永年にわたり、被告等を含む蕨部落民が、地上の立木・雑草・果実などの伐採・採草・収獲を目的とする入会権を有し、被告等は右入会権者たる蕨部落民よりの委託により本件立木を伐採したものである。従つてその行為はもとより正当である。

五、同    五乃至七の事実は認める。

六、よつて原告等の本訴請求は失当である。

証拠(省略)

理由

一、本件「ロ地」、即ち福江市蕨町字清水二五五番ロ(登記簿上、長崎県南松浦郡久賀島村蕨町二五五番ロ字清水)山林一町一畝一〇歩(公簿面積)が原告等の共有であることは当事者間に争いがない。

二、証人田中勇一の証言・鑑定人田中勇一の鑑定の結果・検証の結果・弁論の全趣旨を綜合すると、「係争地」の地勢は概ね次のとおりである。

別紙第一図面に表示する「係争地」の北西側(同図面<27>と<1>を結ぶ線)は久賀湾に面する海岸線の近くで、南西側(右同<20>乃至<27>を連結する線)は久賀湾より東南に向け走行する峰の稜線で、北東側(右同<1>乃至<19>を連結する線)は概ね谷合い(右同<7>乃至<19>を連結する線)の山道で、一部(右図<1>乃至<7>を連結する線)はほぼ海岸線で、右<7>の地点乃至<19>の地点を連結する線の南西側には、ほぼこれに並行して小さな谷川が流れ、この谷川は海岸線の近くで右山道と交わり、久賀湾にそそいでいる。また東南側(右同<19>と<20>を結ぶ線)には、原告等が「ロ地」と隣地との境界の目印であると主張する「松の切株(<20>の地点)」や自然石の「夫婦岩」(この名称は原告等が名づけたもの。)および「ラン竹」や「石塚」などがある(検証調書添付見取図参照)。なおその他に、「係争地」の所有権の帰属を明認させるに足るような物は存在しない。

三、次に証人市川留三郎(第一乃至三回)・同本村国松・同松本松五郎(第一回)・同上村申松・同江頭岩松・同塩脇千太郎・同松井幾太郎の各証言を綜合すると、「係争地」の南西側に、前同図面表示の<20>乃至<27>の地点を順次連結する峰の稜線を境界として「係争地」と隣接する土地は、もと大開部落が管理していた字楠泊二四六番の二五および二六の山林で、現在は福江市市有地であることが認められる。右認定に反する証拠はない。

四、ところで原告等は、「ロ地」は前同図面表示の<20>乃至<27>の地点を連結する峰の稜線を境界として、字楠泊二四六番の二五および二六の山林に接続している。つまり「係争地」は「ロ地」に属すると主張する。よつて以下この点につき検討する。

(一)  甲第四号証(楠泊字字図抄本)について、

右字図抄本は当事者間において成立に争いのないものであるが、記載部分が簡略過ぎるので、さらに鑑定人田中勇一の鑑定の結果および証人田中勇一の証言に照らし、右鑑定書添付の「字楠泊字図写」とを対照綜合して考えるに、これらの字図の左側には、下部より上部に向けて細長い矩形状の二四六番地の二五(「楠泊字字図写」では二四六番ハ)・二四六番の二六(前同二四六番ハ)・二四六番の五(前同二四六番ロ)・二四六番イ・二四五番・二四四番・二四三番の一乃至三(前同二四三番)の山林が並列し、その右には一見広大に見える二四〇番第一(前同二四〇番)の山林が右上方にまで延びている。また下部には、二四二番・二四一番・二三六番・二三五番・二二五番・二二四番・二二三番の土地があり、その地目は「田」であることが明らかで、それより順次上部に移るに従つて「畑」・「原野」・「山林」の記載が見え、「墓」の記載もある。また中央よりやや左寄りの下部から中部にかけて「川」があり、さらに中央よりやや右寄りの下部から右上方に向けて、細長い「道路」状の記載がある。以上の字図上の記載とさきに示した証人田中勇一の証言・検証および鑑定の結果ならびに弁論の全趣旨を綜合すると、右両字図の上部は山地で、下部は海岸に面しているものと推察され、前記左方の矩形状の「山林」は互いに峰の稜線若くは谷合いをもつて境界をなしているものではないかと推察される。このようにみると、「係争地」に隣接する原告等主張の字楠泊二四六番の二五および二六番の山林は、甲第四号証に表示の同字二四六番の二五および二六の山林に該当するものとみるのが相当であると思料する(なお字図上に記載の方位は、かなり相違するのではないかと考える)。右認定に反する証拠はない。しかしながら、これらの字図の記載自体によつては「ロ地」の位置を判断することは不可能である。

(二)  甲第三号証(清水字字図抄本)について、

右字図抄本も当事者間に争いのないものである。そこで右字図抄本を、成立に争いのない乙第二号証ならびに証人田中勇一(一部)・同道脇僖一の各証言および鑑定人田中勇一の鑑定の結果(一部)に照らし、右鑑定書添付の「清水字字図写」および「字清水明治九年地租図(絵図)と対照のうえ綜合考察すると、甲第三号証の字図抄本には、二四七番・二五五番イ・二五五番ロの三筆の土地が記載されているが、明治九年頃には二四七番乃至二五五番の九筆の土地に分れ、その後(年月日不明)二四七番と二四八番が合筆されて二四七番となり、二五一番と二五二番を合筆されて二五五番ロとなり、二四九番・二五〇番・二五三番・二五四番・二五五番が合筆されて二五五番イとなり、二四八番乃至二五四番は欠番となつた。また合筆前には二四七番乃至二四九番以外の土地はいずれも共通の道路(字図上の赤色部分)に接していたが、合筆後は二四七番・二五五番イ・二五五番ロはいずれも前記道路に接し、二四七番の北側および西側にも道路ができ、他にも一部道路の増設があつたのではないかと窺知することができ、右認定に反する証拠はない。いうまでもなく以上の各図面は経験則上明らかなように、極めて測量技術の幼稚な時代に、かつ大要を略図したものであるから、余りにもその記載に重点を置くことは妥当ではないが、だからといつて、これら字図上の記載を一概に軽視することもできないものと考える。従つて右合筆後の前記三筆の土地の固有の境界は前記の道路を基準にして判定する外ないものと思料する。しかしながら甲第三号証・鑑定書添付の前記字図写・絵図等の記載自体をもつてしては、基準となるべき前記道路の所在位置、字楠泊二四六番の二五および二六との隣接状況などを知ることができず、従つて「ロ地」の位置を的確に判定することは不可能である。右認定の趣旨に反する証人田中勇一の証言および鑑定人田中勇一の鑑定の結果は信用できない。

(三)  甲第二号証について、

甲第二号証は、被告等においてその成立および原本の存在を否認するものである。ところで証人市川留三郎(第一乃至三回)の証言によれば、右書証は、司法書士を業とする同証人が、福江市役所久賀支所において、楠泊字字図(甲第四号証の原本)および清水字字図(甲第三号証の原本)を複写し、この二枚の複写図を、結局自己の判断に基づいて接合し、これを一枚の図面に表現したものと認められる。従つていうまでもなく甲第二号証の原本となるべき公図(字図)は存在しないものである。

右認定に反する証拠はない。そうすると、右甲第二号証の記載自体から「係争地」の所在位置や形状等を判断することはできない。なお同証人は、甲第二号証作成の根拠(甲第三・四号証を接合した理由)につき種々の事実や資料を挙示しているけれども、それ等は結局自己の知識や経験による独自の判断であつて、中には極めて合理性に欠けるところや、世人を納得させるに足るだけの根拠を示していないもの、または後記のように同証人の証言に反する有力な反証もあり、当裁判所としては同証人の述べる接合の理由をそのまま信用するわけにはいかない。

(四)  次に原告等の主張事実を間接的に裏づけるものとして、「係争地」の管理や立木の伐採等に関し、概略次のような証人や本人の供述があるので、以下これを検討する。

(A)  明治四三年頃、原告等の先代紙村栄蔵から依頼されて、阿野竹造・本村八十松・谷口勇助・紙村栄八・本村国太郎等が、「係争地」内の立木を伐採した。その際紙村栄蔵から聞いた「係争地」と隣地との境界は、西南側は稜線(別紙第一図面表示の<20>乃至<27>の地点を順次連結した線)、東南側は「夫婦岩」と「ラン竹」を結んだ線、北東側は「谷川」であつた。(以上証人阿野竹造・同本村国松(第一回)・同松井幾太郎の各証言)

(B)  大正七年頃、紙村益蔵等から頼まれて、「係争地」内の立木を伐採した。その時益蔵から聞いた「係争地」と隣地との境界線は前記(A′)記載のとおりである。また昭和三二年頃、原告両名から依頼されて、同原告等と共に「係争地」内の立木を伐採した。(以上証人本村国松(第一回)・同紙村益蔵の各証言および原告各本人の供述)

(C)  大開部落が管理していた字楠泊二四六番の二五および二六の山林と「係争地」とは峰の稜線を境とし(別紙第一図面表示の<20>乃至<27>の地点を順次連結した線)、青年の頃約一〇年間ぐらい、大開の山林に椿の実などの採取に行つた。その頃大開部落の老人から「係争地」は折紙の山林だから、そこで木の実などを取るなと教わつた。(以上証人松本松五郎の証言)

(D)  昭和二八年頃、脇内政吉が原告両名から「係争地」内の立木を買い受けて伐採した。後に一時このことが久賀村村会で問題になつたが、結局当時の村長江頭鉄之助も「係争地」が原告等の共有であることを認め、以後村会の議題にものぼらなかつた。また当時「係争地」が原告等の共有であることは殆んど村民熟知の事実であつた。(以上証人市川留三郎((第二回))・同上村仁右衛門・同松本松五郎((第二回))の各証言・原告各本人の供述)

(E)  古老の語り伝えに、「係争地」は原告等の共有であると聞いている。(以上証人松井幾太郎・同田脇栄太郎の各証言)

(F)  昭和二三年頃、「係争地」内で、本村国松が製造した木炭の検査をしたことがある。(以上証人田脇栄太郎の証言)

(G)  昭和二五・六年頃、大開部落において、字楠泊二四六番の二五および二六の山林に植林をした。そのとき隣接する「係争地」との境界をはつきりと確定した。その境界線は峰の稜線(別紙第一図面表示の<20>乃至<27>の地点を連結する線)であつた。そして「係争地」が「ロ地」に属することは大開部落民のひとしく認めるところであつた。(以上証人市川留三郎((第一乃至三回))・同松本松五郎((第一・二回))・同上村仁右衛門の各証言)

(H)  「ロ地」は自己の社会的経験ないし職業上の知識から判断して海に面するものと思う。「ロ地」の位置・形状は甲第二号証記載のとおりであると信じている。被告等の主張する字清水二四七番地の山林は「係争地」のほぼ東南側にあり、被告等主張の位置は間違いである。また被告等の主張する二四七番地横の道路は昔からあつたものではなく、杭木等の搬出等のため近年自然に道らしくなつたものかもわからない。(以上証人市川留三郎((第一乃至三回))の証言)

ところでこれらの供述のうち、(A)・(B)の各証言に現われた立木の伐採については、本件全証拠を通じてこれを覆えす証拠はないが、紙村栄蔵等から聞知したという境界線については、その一部につき相当の疑問がある。なぜならば原告等自身も、本件紛争の当初においては「谷川」を北東側の境界線と主張していた(証人山田正義の証言により認められる。)が、後本訴においては「山道」が境界であると主張を変えている点ならびに甲第三号証記載の赤道(乙第二号証により認められる。)の存在や鳥巣イサの証言(後記のように「谷川」か「山道」のいずれが境界かによつて鳥巣所有の田の所属地を異にする。)などと対照考察してみると、前記証人等が境界線を聞知したというのはいずれも相当昔のことで、結局は伝聞に属し、かつ極めて漠然としたものであり、最もよく知つている筈の原告等の主張とも一部異る点があり、直ちに右証言を真実と信ずることはできない。また(C)・(E)の各証言にしても、こと境界線に関しては結局伝聞に帰し、(なおこのような古老の語り伝えをすぐさま単に伝聞の故をもつて証拠価値がないものと即断するものではないが)かつこれと反対の伝聞証言もあり、いずれを真実ともにわかに決し難い。さらに(D)・(G)の各証言については、後述のようにこれに反する多数の証言やこの点についての証人等の証言の信用性に多大の疑問を懐かせる事実(選挙に関し原・被告両派に分れ、証人が感情的に対立していることが明らかである)も明瞭であるから、これまた何れの側の証言が真実であるかは一概に断定できない。また(F)の証言はそれ自体証拠価値に乏しく、(H)の証言もその根拠につき何等の合理的説示がなされておらず、すぐには採用し難い。

(五)  次に被告等の提出する反証について考察する。

(あ)  甲第三号証記載の字清水二四七番地の土地(以下「二四七地」と略称する。)について、

甲第三号証の記載によると、「ロ地」と「二四七地」は、道路を狭んで相接することが明らかである。証人藤原元・同大石清蔵・同本村国松(第一回)・同田中勇一の各証言および検証の結果を綜合すると、「二四七地」はもと藤原栄次の所有であつたが、その後藤原伊勢松の所有となり、さらに昭和二〇年一一月二〇日、大石清蔵が藤原伊勢松より右土地を代金八〇〇円で買受けたこと、および右売買に際し、藤原伊勢松から「『盲医者屋敷跡』の所に私の山があるからその山を売る」と言うことで、現地を見分せずに買受けたものであること、ならびに検証調書添付見取図中「藤原某の屋敷跡(被告主張二四七番)、同図表示の<ヲ>・<ワ>・<カ>・<ヌ>・<ル>・<ヲ>を順次直線で連結した線で囲まれた部分」附近には古い屋敷跡が現に残存し(なお弁論の全趣旨によると、附近には、その他に同種の家敷跡が一・二残存していることが認められる。)、この地方の住民は昔からの語り伝えで、同所附近を通称「盲医者屋敷跡」と呼びならしていたこと、および原告等も鑑定人田中勇一が鑑定のため現地に臨んだ際にはこのことを認めて争わなかつたことが認められ、この事実に加えて、検証の結果により認められる、同所附近が人の住む場所として不適当ではないこと(原告主張の二四七番地の位置は人が住むには一見して不適当と認められる。)および同所附近に道路が通じていること(字図上の道路か否かは別として)ならびにさきに説示した(二)の事実とを綜合して考えると、検証調書添付図面表示の被告等主張の「二四七地」が真実其処であるとの断定はなし得ないが、少くともその附近に在るのではないかとの公算はかなりに大きいものと認めざるを得ない。(右認定の趣旨に反する証人市川留三郎(第一乃至三回)・同松井幾太郎の各証言は措信できず、他にこれを左右する証拠はない。)このことは原告等の主張事実を認めるにつき大きな障碍となるものと考える。

(い)  鳥巣千太郎所有の田について、

検証の結果および証人鳥巣イサの証言によると、「係争地」の、別紙第一図面表示の<8>の地点の北東側に、鳥巣千太郎所有の田が在り(検証調書添付見取表示の「田」の部分)、この田はもと原野であつたものを、旧歴大正九年六月三〇日に、千太郎の姉婿神崎富蔵が、久賀部落より代金八五円で買い受け、開墾して水田となし、後昭和一六年に千太郎が同人より買い受け、その間継続して耕作を続けてきたものであること、および右「田」は五枚に分れて散在していることが認められ(この認定に反する証拠はない。)、原告が本件紛争の当初(仮処分執行当時)主張していた北東側の境界線である「谷川」によつて二分され、仮に「谷川」を境界線とすると、一部は「係争地」内に在ることになるが、原告等が後に本訴で主張している「山道」を境界線とすると、全部「係争地」外に在ることになる。このようにみると、原告等が何等かの理由によつて当初の主張を変更したのではないかとの疑念を生じ、ひいては原告等自身において、本件境界線全般につき確たる認識を持つていたかどうかについてまで若干の疑問をさしはさまざるを得なくなる。右は原告等の主張事実を疑わしめる一つの資料となるものと考える。

(う)  その他に、「係争地」は語り伝えにより蕨部落の入会山と聞いており(以上証人上村申松・同江頭鉄之助((第一・二回))・同下浜百松・同上村久三郎・同坂谷彦兵衛の各証言)、同地内の立木を川端十吉に売却し、同人が「係争地」内で炭焼きをし(以上証人川端コマツ・同上村申松・同下浜百松・同江頭鉄之助((第一・二回))・同塩脇千太郎の各証言)、また蕨部落が、昭和二・三年頃、「係争地」内の松を原告等の先代八十松に贈与したり(以上証人上村申松・同江頭鉄之助((第一・二回))の各証言)、「係争地」に蕨部落民が藪払いに来たり(以上証人上村申松の証言)、昭和二八年頃、脇内政吉が「係争地」の立木を原告等より買つて伐採したので、後村会で問題となつたが、原告等が詫びを入れたので、以後村会で不問に付した(以上証人江頭鉄之助((第一・二回))・同脇内政吉・同平山宇三郎の各証言)、なお昭和七年頃、「係争地」内に蕨小学校校長宿舎用用材伐採の下検分に来たことがある(以上証人平山伊勢松の証言)、昭和二五・六年頃、大開部落が字楠泊二四六番地の二五および二六の山林に植林した際、隣地たる「係争地」との境界を確定したことはない。当時市川留三郎は殆んど植林の現場で監督したことはない(以上証人塩脇千太郎の証言)、「二四七地」の所在地は被告等主張のとおりである(証人藤原元および同江頭鉄之助の第一・二回の各証言)などの証言がある。そして右証言中、被告側の管理伐採に関する証言についてはこれを覆す証拠はなく、その他の証言については、一概に真否を判定し難い。

(六)  以上の証拠を検討し、その他本件に現われた一切の証拠を綜合考察のうえ、結論を簡単に述べるに、まず甲第一乃至三号証はその記載自体ならびにその余の全証拠を加えても「ロ地」の位置・形状を判定できず、また種々の管理・伐採行為や古老の語り伝えなどをもつて、「係争地」が「ロ地」に属することを証明しようとする原告等の前記の各証拠については、反面これと同種の事実を述べる被告等の反証もあり、しかも両証拠はいずれを真とも決し難く(むしろ、本件境界については双方とも確たる認識を欠き、互に同種の管理伐採等の行為を続けていたのが真実ではないかと推察する。)、結局原告の主張事実を証明し得る断定的証拠とはなり得ず、さらに被告等提出の前記の反証((四)の(あ)・(い))は、原告等の主張事実を認定するに当り、相当大きな障碍となるものと認められ、その結果、当裁判所は本件に現われた一切の証拠をもつてしては、「係争地」が「ロ地」に属するとの原告等の主張事実を認めるに足りないものと判断した。また以上の外に本件伐倒木が原告等の共有であつたことを認めるに足りる証拠もない。

五、よつて「係争地」が「ロ地」に属することの確認ならびにこれを前提とする爾余の請求は、その余の争点に関する判断をなすまでもなく失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条・第九三条を適用し、主文のとおり判決する。

別紙

目録

一、金一二万五二〇〇円也

当庁昭和三五年(モ)第九号換価命令申立事件により換価された松約一〇〇石の換価代金

<省略>

第一図面

<省略>

第二図面(略図)

<省略>

第三図面(略図)

<省略>

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